【コラム】伝える情報をどこまで細かくするか?


友人が「文章がわかりにくいって言われた」という。そこで、彼の文章を見せてもらうことにした。見たり話したりするうちにひとつ、「ああ、そういえばあなたの話し方と書き方には共通の課題があるね」と気が付く。それは、情報の細かさ、つまりは情報の取捨選択について。彼は、話すときの情報がとても細かいのだった。

情報が細かすぎる人たち

情報が細かすぎるとはどういうことか。つまりは必要のない情報を伝えてしまっているということ。さまざまなことを事細かに説明するのは、おしゃべりにおいてはダメではないし、コミュニケーションとして意味のある場合もあるが、情報の取捨選択や要約が苦手でそうなってしまう人が多いようだ。

例えば、「いとこの笑えるエピソードを話したい」ときに、「いとこの情報」はどこまで必要かを考える。どこまで話せば笑えるのだろうか。

子どもの頃に公衆トイレで一緒におもらししたエピソードなら、「性別(同性である)」を伝える必要があるかもしれない。

お互いの母が姉妹で、後姿や姿が瓜二つで、いつも呼び間違えるというエピソードなら、「僕の母の妹の子ども」まで言う必要があり、男女は不要かもしれない。

伝えたいことによって、必要な情報が変わるのだ。ところが情報が多すぎる人は「僕の母の妹の息子が僕より2歳下なんだけど」まで話してしまう。

理解するまでのストレス

「まあまあ、そこまで厳密にする必要はないじゃない」という考えもある。

そこで思い出してほしいのは、小説の読み始め、物語に没頭するまでの間、主人公の素性や時代背景、場所などを理解するのはそれなりに骨が折れるということ。「早く物語に夢中になりたい、没頭したい」と思うのではないだろうか。

つまり、設定を理解するための説明は、少なからず聞き手、読み手のストレスになる。それが必要のない情報ならなおさらだ。

だからこそ、聞きやすい、読みやすい文章を目指すなら、無駄なものを減らしたほうがいい(説明の部分だからこその楽しみもあるし、それを上手に伝えられるならこの限りではないけれど)。

その情報に必然性があるか

つまり、情報を取捨選択するためには、「何を伝えたいか」を明確にしなくてはならない。そこまで厳密に考えていなくても、ある程度は「伝えたいこと」を持っているはず。特に、文章の場合はなおさらだ。その「伝えたいこと」に対して、必然性のあるものを書いていく。もちろん、情報が足りなくても問題なので、過不足ないことが理想となる。

さらに、読み手のことも考える必要がある。読み手が「出版関係者」とわかっていれば「推敲の時に気を付けて」と書いてもよい。ところが「推敲」は出版関係者などが使う専門用語。読み手が一般の人の場合には「推敲」の意味を付け加えるか、別のもっと一般的な言葉を使わなくてはならない。

「伝えたいこと」「読み手(あるいは聞き手)」を考えて、必要十分な情報を記す。それが、わかりやすい文章のための小さなひとつのコツになる。

<執筆:栃尾江美