誰しもがクリエイターになれる時代。誰しもが世界に向けて発信できる時代。
おそらく多くの人には、創造したい、表現したい、という欲求があるのではないだろうか。
そんな時に、どんなものを発信すればいいのか。
ひとつには「自分が感じたこと」「自分の考えたこと」を書くという選択肢がある。
だけど読み手の立場になると、誰とも知らない人の感情や考えを知りたいとは思わない。
だから、たくさんの人に読まれるとは考えにくい。
つまりそれは、「自分のために書く」行為に他ならない。
私たちはなぜコンテンツを摂取するのか
まず、私たちはなぜエンタメ的コンテンツを摂取するのか、というところから考えたい。
エンタメコンテンツとは、映画や小説、漫画、ドラマなど。
ときに「生」要素のあるお芝居、落語、音楽ライブ、などなど。
それは学びを得たいというよりも、楽しみたいからだろう。
笑ったり悲しんだり、複雑な心境に身をゆだねたり、登場人物に共感したり、演者に感心したり。
それは、「心を揺さぶられたいから」というところに集約するのではないか。
私たちは日常を彩るために、心を揺さぶられたいと思っている。
ポジティブな「楽しさ」だけではない。
怖い思いをしたい人、スリルを楽しみたい人、悲しみを味わいたい人、それぞれだ。
でも心が揺さぶられなかったら、面白いとは感じないだろう。
感情は複雑なマーブル模様。決して一色ではない
単純に「怖い」「悲しい」「楽しい」を感じればいいのかというと、そうでもない。
人はパターンを知り、既知のものには驚かず、飽きてしまう。
だから、さまざまな感情が組み合わさるような、複雑な心の揺さぶりを求めている。
複雑な感情にぴったりと当てはまる言葉はほぼない。
物語であれば、主人公の環境や生まれ育ち、時代背景、人間関係、コンプレックス、などなど、さまざまな要素が絡みあって、その一瞬の感情を作り出す。
だからこそ、物語は存在意義があるのだ。
長々とディテールを積み重ねるしか、描けないものがある。
若い時と歳を重ねてからの違い
コンテンツを摂取するとき、どのような心の動きがあるか。
子どものころや若いころは、未知の世界を知る手がかりだった。
自分が体験したことのない世界を、主人公が体験する。
それにより、気持ちが高ぶり、心が揺さぶられる。
ところが、年を重ねると心の動きが変わってくる。
自分の体験と重ね合わせられるものに、とても細かな心の動きが潜んでいる。
子どもを持つ親が、家族モノに心を打たれてしまうのはそういう理由だ。
人は、自ら体験したことこそ、心が揺さぶられるし、もっとも繊細に「何か」を感じることができる。
自分のことを書いてみよう。どんな創作コンテンツより没入できる
それならば、忘れていた自分の過去を読み返すのはどうだろう。
感情が生まれた「その時」に、自分のために書いていた人だけが、その楽しみを享受できる。
悲しいことに、記録しておかないと、驚くほどに忘れてしまう。忘れたことすら忘れてしまうのだ。
だから、書いてきた人は、過去の自分に感謝した方がいい。
「悲しかった」「辛かった」だけではない、出来事も含めて記しておいたものがあれば、当時の感情が細かな部分まで鮮明によみがえる。
なぜなら、主人公は自分だから。
生まれ育ちも前提も、時代背景も、ほぼ理解している(忘れている場合もあるけれど)。
だからこそ、それらが絡み合ったその一瞬の感情を、世界でたった一人、自分だけが、鮮明によみがえらせることができる。
そしてそれは、自分だけの、本当に自分のためだけの、どんな物語よりも上質なコンテンツになる。
「自分のことを書き続ける」理由は、ほかにもっともっとたくさんの良さがあるけれど、ひとつが「自分にとって、とても優れたエンタメコンテンツである」ということ。
書いてきた人にしかわからない。ひそかな楽しみ。
だから今日も、未来の私のために自分のことを書こう。
<執筆:栃尾江美>
<見出し画像イラスト&デザイン:金子アユミ>